376
ぼくはカヤの茂み(カムィシ)で生まれた。ねずみ(ムィシ)みたいに。母はぼくを産むと、水のなかへ置いた。で、ぼくは泳ぎだした。
四本のひげを鼻面に生やした、何とも知れない魚が、ぼくの周りをぐるぐると廻る。ぼくは泣きだした。すると魚も泣きだした。と、不意におかゆが水面を流れてくるのが目にはいったのである。ぼくらはそのおかゆを平らげ、笑いはじめた。とても楽しくなって、水の流れにそって泳いでいると、ザリガニに出会った。それは、年を経た巨大なザリガニであった。彼はそのはさみにオノをつかんでいた。ザリガニの後ろには裸の蛙が泳いでいた。「どうしてお前はいつも裸なのだ」とザリガニが聞いた。「恥を知らんのか?」。「恥ずかしいことなんか、ありゃしませんよ」と蛙が答えた。「どうして自然が自分にくれた立派な身体を恥じることがあるんです、自分が自分にくれてやった醜い行いは恥じたりしないくせにさ?」。「お前が言うのは正しい」ザリガニは言った。「それにどう返事をするべきか、わしにはわからん。そういうことは人間に聞きに行くがいい。人間はわしらより賢いからな。わしらが賢いのは寓話のなかだけさ、その寓話だって人間が書いたものだ、つまりは、やっぱり賢いのは人間で、わしらじゃないって事になるのさ」。けれどそこでザリガニは僕に気がついて言った。「どこに泳いでゆく必要もない、そら、この子が人間じゃないか」。ザリガニはぼくに泳ぎよってたずねた。「おのれの裸体を恥じるべきか?人間よ、わしらに答えよ」。「人間として、あなたがたに答えましょう。おのれの裸体を恥じることはありません」。
(1934)
画・河原朝生
*訳者より
どこか不気味なハルムスの散文詩です。
母親が水草のなかで産み落とし河に捨てた子供が泳ぎだし、魚と友達になり、古代のザリガニから「人間よ、裸体を恥ずべきか」と問われ、「いいや、恥じることはない」ときっぱり答えます。文体は平易で、節が短く、子供が書いた文章のようですが、内容が不条理で、何故この問いなのか、なぜこの答なのか、だから一体何なのか、つかみどころのない話です。文中に散りばめられる様々な暗示が、奇妙に歪んだ空気を生み、一筋縄ではいかない不気味さをかもし出しています。
「どうして自然が自分にくれた立派な身体を恥じることがあるんです、自分が自分でやった醜い行いは恥じたりしないくせにさ?」。蛙の発するこの言葉は、一体誰に向けられているのでしょうか。そして、母親に生んだまま河に捨てられた子供に問いが向けられるというのも何やら象徴的です。
この散文詩の土台となっているのは、ハルムスの個人的な知り合いであったB.プロップが、「魔法の御伽噺の歴史的根源」という論文において紹介している、マウイについてのフロベリウス神話の一節のようです。
私は知っている、前世に私は海岸で生まれたのだという事を。あなたは(母親を指差し)、そうする目的でわざわざ切った自らの髪の毛で私をくるみ、海のあぶくのなかに投げ込んだのだ。そこでは海草が長い姿態で私に絡みつき、私を形作り、私に形を与えた。たくさんの魚が、私を守るために私にとりついた。百万もの蝿が私の周りで羽音を鳴らし、私の上に卵を産みつけた。鳥の群れが肉をついばむために私の周りに集まってきた。